認めるという事
このブログを書き始めるキッカケになった人が、何年かかけて1つの答えを見つけたらしい。
いつも割と真面目に書いてるけれど、今日は彼女の踏み出した一歩に便乗して、このタイトルで書いてみようと思う。
自分の良いところはよくわからないが、悪いところはいくつか把握していて、だからこそ日々の暮らしの中で気をつけようと思えている。
些細な事だと煙草。
喫煙者なので暇さえあれば煙草に火をつけてしまうが、嫌煙家が側にいる時はその人の眼の前では吸わないようにしていたり、一言添えてから火をつけるようにしている。
煙草を吸う事が悪ではないが、少なからず文字通り煙たがる人はいるわけで、それに気がついた時点で配慮しなければならないと思っている。
でも、喫煙者が全員これを実行しているかと言えば答えはNOで、基本的に人の事を考える前に自分の欲求を優先したい人が多い。
だから、そんなつもりはないのに凄く嫌な顔をされたり、明らさまに拒否反応を示される。
醜いのが、そういった背景を知らずして嫌煙家を嫌う喫煙者がいるという事。
ニワトリが先か卵が先かに近いけど、お互いがお互いを原因だと思い込んで歩み寄る事が出来ない。
つまり認めあえていない。
相手を認めなくても自分の非を認める事が出来れば、そこらへんは人間の良いところで言葉にして伝える事が出来る。
今でこそ人間関係を大事にしているが、昔は視野の狭い子で思いやりの欠片もなく、自分を嫌う人間は漏れなく嫌いになっていた。
正直、後悔しているんだ。
でも当時の自分はそれに気がつけなくて、いつだって自分が正しいと突っ走ってた。
ブレーキかけてくれたのは3つ年上の職場の人だった。
誰からも好かれる人で、八方美人な野郎だなと思っていたが実は違っていて、本当に人との繋がりや関わりを大切にしていたからこそそう見えてただけだった。
広く深い関係値なんて無理だと思っていたが、彼を見ていると無理だと決めつける方がナンセンスなんだなと思わされた。
仕事の取り組み方で揉めた。
一方的に俺が悪いんだけど認める事が出来なくて仲違いになった。
風の噂で彼が俺を何年か働いてきた中で最低のスタッフだったと周りに言っているのも知っていた。
勝手に言ってろよ。
そう思いながら生活してた。
数年後、2度と一緒に働く事はないと思っていた彼と働く事になった。
最初は露骨に嫌な顔をされたけど、その数年間で俺が学んだ事、変わったことが彼に伝わったらしい。
そこからは昔よりも仲は深まって、たまにしか連絡は取らないけどグッと深い話が出来るようになった。
あんなクソ野郎がここまで再生されるんだね。と彼が言う度に周りは信じられないような顔をするが、それくらい俺はクソ野郎だった時代がある。
認められた事によって、認められた。
失った時間は取り戻せないけど、そこから咲きで後悔しない選択が出来るようになったならそれは大きな成長だと思う。
凄く長くなったけど、まとまってるのかなぁ?